74km地点の白桃パフェ

暑い暑い夏も、38℃バイクを経験すると、35℃は涼しくさえ感じてしまう今週。先週と同じく、朝8時半に出発し、同じコースを行く。明らかに風が涼しく、快適。向かい風だけがしんどかったけど。ボトルごとキンキンに冷凍した水の、なんと美味しいこと。連光寺坂を上り、野猿峠を上り、まだお盆休みで車の少ない町田街道を飛ばす。38℃の時は、もうこの辺りでヘロヘロだった。いつもは、「寄るな、触るな、話しかけるな」みたいな雰囲気で走っているのに、誰かに声を掛けられたら、付いて行ってしまうくらいに弱っていた。慣れというのは恐ろしいもので、35℃のバイクはすでにデフォルトになっている。ラジオでは高校野球を聞きながら、もうぬるくなった水を飲みつつ、後半戦。74km地点にある多摩川近くのミニストップで、これも先週と同じく白桃パフェで休憩。先週は、このあたりですでに熱中症で、味もよくわからなかったが、この日はとても美味しく、堪能。80kmを4時間弱で帰宅。楽勝、と思っていたが、2時間も経つと、また頭痛。薬を飲んで、夕方30℃の中を10kmラン。ジムの仲間には、「こんなに暑いのに、走ったの?」と言われたが、風もあって、なかなか快調なランだった。

酷暑の夏

猛暑、なんてものじゃなく、酷暑。
気温が40度って、体温でも高熱なのに、空気が高熱状態って。
佐渡まで、残る3週間、1週バイク練を開けてしまうと、残り2回になってしまうので、日曜日、すでに6時でも暑いのに、ボトルごと冷凍庫でキンキンに冷やした750mlポラーボトルを2本持って、連光寺へ。8時半に出発して、10時頃まではいつもの暑さだった。これが、11時を過ぎた頃から、ぐっと暑くなってきて、保冷ボトルの水も、もはや熱湯状態。さっきまで、氷のかけらだった水を頭から掛けたら、熱い、熱い。高尾で40km、残り40km、帰れるだろうか、と不安になった。息を吸い込んでも、まるでドライヤーの熱風のようで、吸い込んでも息苦しい。少しの登りもお腹のあたりが気持ち悪く、3年前まで皆生トライアスロンの登りでやっていた、「あー、あー、あー」と声を出しながらペダルを漕ぐ。こうしていないと、お腹に力が入らない。心なしか、ロードの数も少ない。ボトルの水は、すでになくなり、残り7km地点のミニストップで、先週は食べられなかった白桃ヨーグルトパフェを食べる。カウンターで注文するが、顎から汗がボタボタと流れ、全身が汗でドロドロの中年女に、店員の男の子も引き気味。幸い、椅子席に誰もいないので、無理やり口に入れて、炭酸で流し込む。美味しいとか、冷たい、とかいう感覚がなく、喉につかえる感じ。最後の成城の登りを登って、なんとか80km終了。シャワーで水をしばらく浴びると、そのままソファに横になる。今年の夏は、ハンパネー。

シークレットレース

自転車競技のドーピング問題は、今年前人未到の七連覇を遂げたランス・アームストロングの自白によって、大きな局面を迎えた。そのアームストロングとUSポスタル時代にチームメイトとして一緒に過ごしたタイラー・ハミルトンが独白する形の小説が、シークレットレースだ。聞き手はダニエル・コイル。そこには、選手時代を通して、ドーピングと付き合った顛末が綴られている。私が初めてツール・ド・フランスを知ったのは、かれこれ27年前だと思う。ベルナール・イノーがいて、グレッグ・レモンがいて、ローラン・フィニョンもいた。この頃、動く映像を見られたのは、NHK総合でやっていた1時間の総集編だけだった。それでも、ツールの魅力は十分に伝わった。ツールを制する者は、英雄であり、自転車界のヒーローだった。アームストロングはモトローラにいた時に癌になり、復帰後七連覇を遂げている。当初から、ドーピングの噂はついて回ったが、次々とトップ選手が出場停止になるなか、ランスだけは無傷だった。それが、引退して、こんなに年数が経過してからの告発に、みんな首をかしげた。どうして、今さら、どうして、こんなに時間がかかったのか。それが、この本を読むとよくわかる。ランスは癌になった時からドーピングの噂があり、七連覇の頃は、自分は血液ドーピングの常習者であったにも関わらず、チームメイトを告発したり、国際自転車競技連盟(UCI)に密告したりを繰り返している。一番驚くのは、そのUCIも多額の寄付金で買収しており、ドーピングの検査日は彼には知らされていたということ。陽性反応が出た時も、その結果はもみ消しにされている。ランスは、自転車界のヒーローであり、一流の実業家であり、莫大な資産を生み出す商品であって、常に他を圧倒し、排除していかなければならない宿命にあったといえる。数年前にFBIが調査に動いた時も、政治的圧力で断念され、そして再び、かつてのチームメイト、フロイド・ランディスによる告発、米国アンチドーピング機構(USADA)が告訴し、すべての栄冠を剥奪した。ハミルトンの選手生命を絶ったのも、ランスによる告発であり、その弁護士費用に100万ドルをつぎ込んだ、とあった。そのハミルトンのドーピングの記録は、とても切ない。鎖骨骨折をし、歯を食いしばってラルプ・デュエズを登っていたタイラーをとてもよく覚えているが、その彼も、当時、血液ドーピングをしていたということ。そして、高速化したツールで活躍をするなら、それは必須のことだったということ。自転車に乗ることが好きだった選手が、勝つためにドーピングをし、そして破滅していく。その記録は、とてもとても悲しい。

ゲリラ豪雨

ここのところ、毎日がゲリラ豪雨への警戒。世田谷でも100棟の浸水があってから、他人事とは思えなくなってきた。出した洗濯物は洗い直しになるし、とにかく、あっという間に側溝が水で溢れる。土曜日は、朝から東北、関東に大雨警報、とテロップが出ていて、晴れてはいるものの、いつ降るか、と自宅待機の状態だった。しかも、ものすごい蒸し暑さだった。室内で冷房を掛けていても、汗がだらだらと出る。一応、走るウエアは着て、洗濯したり、掃除をしたりして待機していたが、結局、出ず仕舞い。夕方、ウトウトと昼寝をして、6時過ぎにジムに出かけ、トレッドミルで走った。雨は8時過ぎから。隅田川花火大会も中止になった。翌日、この日も夕方は雨、という予報だったが、早めにバイク練習に出かける。連光寺~尾根幹~野猿街道~北野街道、そのまま町田街道が70kmコースだが、この日は鑓水から柚木へ行き、尾根幹に戻ってくるコース。渋滞の町田街道を避けて、尾根幹をノンストップで走る。3時間少しで戻り、洗濯をして、そのまま夕方スイムのつもりが、ユミさんに走りますか?メールをすると、「混んでいるかもしれないので、シューズ持っていきます」と外ランの誘いもあったので、5時過ぎから仙川へ。しゃべりながらの13kmランを終えて、充実の日曜日が終了。夜は、タイラー・ハミルトン「シークレット・レース」を読む。

ベンチプレス世田谷大会

スポーツクラブのフリーウエイトコーナーでは、いつも石渡先生が門下生を指導している。クラブではなく、あくまでも自主トレ。そういう人達が何人もいて、マリアさんも美樹ちゃんも、その中のメンバー。大会が農大の道場であるというので、最近ロッカーで話すようになった奥様と二人で、日曜日の朝、農大の体育会合宿所近くの門をくぐる。アパートみたいな合宿所には、ユニフォームが干してあり、男の子が歩いてくる。「こんにちは」と言うので、「あの、道場はどこですか」「道場は、あっちです」と指さす方向には、立派な鉄筋の校舎があった。そこの3階でベンチプレス世田谷大会が行われていた。狭い教室みたいなところに、見ればほとんどスポーツクラブの人達が。重量の札を入れ替えしているのはワコちゃんだし、掲示の記録してるのはキクちゃんだった。この頃、先生の教えを受けているというユキちゃんは、「でも、52kg級だと、美樹ちゃんとぶつかるのよ」と言うので、「じゃあ、5kg太って、57kg級にしたら」と言っておいた。大会は上げるウエイトの軽い順に、3回試技を行う。審判は3人いて、2人以上の白旗が上がればクリア。マリアさんも美樹ちゃんも、体重別の参加は一人だけなので、二人とも金メダルだった。参加者のほとんどは、スポーツクラブの人たちで、揃いのTシャツにベルトを巻き、マリアさんも美樹ちゃんも、堂々として、なんかカッコいい。最後まで見ずに、私たちはスタバでお茶をしに出てしまった。その後、1時半から、私はバイクジャージに着替えて、小野路~尾根幹ルートの練習に出かけた。劇坂ばかりだったけど、ものすごく面白かった。

猛暑ふたたび

野尻湖に行っている間に、関東地方は梅雨明けし、記録的な猛暑へと突入した。一週間前に、信濃町でレースをしていたのがウソのようだ。少し歩いているだけで、クラクラする。こんな猛暑の中のレースでなくて、本当によかった。部屋の中も、冷房をかけていても暑いので、冷房の真下にクッションを置き、寝っころがって、遠くのテレビでやっているツール・ド・フランスを見ている。遠くの画面なので、レースも遠巻きに見ている感じで、「フルーム、頑張ってるなぁ」なんて、まるで気が入っていないのだ。そのツールも、いよいよラルプ・デュエズに突入で、そんな大事な局面で、すでにトップは4分半のアドバンテージを持っていて、盤石の展開。海の日の三連休も、東京は暑かった。初日の土曜日は、野尻湖の賞状と賞品が届き、今年も3位のご褒美つき。夕方やっとジムへ行き、おしゃべりしながらのトレッドミルだけ。祝日の月曜日、この日は曇りで「暑さは和らぎます」と天気予報ではさんざん言っていたのに、バイク練に出かけたら、途中から気分が悪くなるほどの暑さで、仕舞には手先が痺れてきた。水分補給もしたつもりだったが、帰り道は辛くて辛くて、やっとの思いで80km終了。氷をいっぱい入れたコーラをがぶ飲みしたが、空腹感は全然なく、横になったまま夕方まで休息。7月半ばで、早くも熱中症なのだった。グローブもしていたのに、左手中指がパックリと切れていたり、なんだか暑いと訳がわからない。どこかの町内放送で、「決して、外に出ないでください。運動はやめてください」と連呼していたとか。この日、東京は35.4度。

野尻湖カップジャパンオープン

昨年に続き、野尻湖トライアスロンに行ってきた。土曜日の朝、車に自転車と荷物のバッグを詰め込んで、関越から上信越道で信州信濃町をめざす。距離は280km、ナビで到着時間をみると、4時間半。天気予報では、新潟は昼から雨になっている。いちおう、長野県ではあるけれど、位置的には限りなく新潟に近い。予定どおり、野尻湖に着き、近くの手打ちそばの店で昼ごはん。蕎麦の香り豊かな手打ちそばをいただく。その後、勝手しったる野尻湖へ向かい、受付場所の野尻湖小学校へ。バイクとヘルメットをチェックし、その場でゼッケンを貼る。エントリー完了。今年は宿泊先をホテルにしたので、バイクコースになっている周遊道路を上っていく。延々と4km行くと、木立ちの中に、リゾート風の素敵な建物があった。客室の全面が湖面に面した、一面のガラス窓。湖を見ながら、準備。予報では、新潟県は雨。朝、出発する時はまだ曇り空だったものの、スイム開始頃から雨が降り出した。バイクでは、かなりの雨。去年も雨だったなあ、と山道へ向かう。路面が濡れているので、走る度に泥だらけになる。しかも、コースは上っているか、下っているかなので、下りは滑らないか不安。いつもより減速気味になる。しかし、きついコースである。上り、カーブ、下り、カーブ、の繰り返し。ようやく終わってランに移る。今年から11kmに短縮になり、それは良かったのだが、でもきつい。湖畔の道に入り、砂間館のおばさんに挨拶。ここから、延々と山道を上る。長い長い上り。一度下って、また登って、下って、というコース。折り返しなので、行も帰りも選手同士、声を掛けあいながら、時折ハイタッチする。MTBでオリンピックに出場し、今はショップ店主の鈴木雷太くんとハイタッチ、知らない若い男子ともハイタッチ、今年はかなり苦しそうなノッチには、「ノッチ、ファイト!」と声を掛けると、辛そうな顔で片手をあげた。ラストの1kmが、どうにもこうにも長い。なんとか抜かれずに、ゴール。見れば、足は全部が泥だらけ、バイクも見るも無残に泥だらけだった。車に積む前にボトルの水で、少し洗車。1時過ぎ、まだゴールする人もいたけれど、早々に高速に乗る。すぐに、前が見えないくらいの豪雨になった。

100回目のツール・ド・フランス

いつもの尾根幹ロードを終えて帰ってくると、CSでツール・ド・フランスの番組をやっていた。今年で100回大会となることから、記念番組として、過去の歴史にふれた海外テレビ番組を流していた。ちょうど私が見たところは、1967年のレース。ガリビエ峠も、モンバントゥーももちろん未舗装路。体操着みたいな服装の選手が、ガシガシ山道を上っていた。ファウスト・コッピは41歳でマラリアで死亡していたり、その当時から薬物の影響が取り沙汰されていた。やがて、エディ・メルクスが彗星のように登場して、5連覇を成し遂げるものの、このベルギー人はフランスではまったく人気がなかったようだ。フェスティナ事件のビランク、今やタイトルを剥奪されたランス・アームストロングと、よくよく考えてみれば、これはドーピングに関してまとめた番組だったのかもしれない。ツールで5度、ジロで3度優勝しているベルナール・イノーについてもさらりと触れただけだったし、グレッグ・レモンとの確執も、イノーの人間性を揶揄していた。こういう取り上げ方はBBCのドキュメンタリー番組に多いけど。私もツールを見始めてから、27年くらいになる。27年といっても、J sportsで放送されるまでは、NHKの1時間番組で見る程度。まさか、生放送でツールを見られるようになるなんて、当時は思ってもみなかった。

梅雨の仙川ラン

梅雨の晴れ間は天候不順である。土曜日も、時折雨がぱらついて、洗濯ものを早めに取り込んだ。そして、日曜日。朝はカラリと、肌寒いくらいの天気で、まさに自転車日和。ノースリーブのトラジャージを着て、尾根幹、野猿峠を走った。とても気持ちがいいけれど、少し喉が痛かったので、登りは不調。帰りの町田街道に入ると、追い風基調になって、帰りはヨイヨイだった。サーティーワンのバースディクーポンをまだ使っていなかったので、馬駈でアイスクリーム休憩。ここから1時間ほどで帰宅。朝と同じく、お赤飯と厚焼き玉子を食べて、3時からのラン練習へ。2週間前と同じく、ユミさんと仙川へ。夕方になって、少し蒸してきた。帰りは、また歩きを入れつつ、15kmくらいを走った。ゆっくりと風呂に入って、すでに都議選には間に合わない8時。スイカを買いにスーパーヘ寄ったものの、すでに売り切れ。お弁当の材料を買って、帰宅。一人メシの晩御飯は、実家の庭の大葉を使って、素麺にした。洗濯をしたかったので、またsiriに聞いてみた。「明日、東京は雨降る?」「アシタハ、カサガテバナセナイデショウ」「ありがとう」「ゴキタイニソエルヨウニガンバリマス」少し、前向きになっていた。

新しいiPad

自宅でiPadを使うようになってから、2年以上が過ぎた。私が使っていたのは、初期型のモデルで、分厚く、カメラは付いていない。もちろん3Gで、ネットにつながるのも時間がかかり、この頃では使用中に勝手にアプリが終了することも頻出していた。リコーの展示会で出展していたので、契約も文書だけで簡単に済んだ。2年が経過すると、iPhoneを取り扱うようになったauがiPadも扱うようになり、これならスマホと一緒に契約できる、と渋谷の公園通りのauショップに行った。「こちらではiPadは扱っておりません」なんて、男の店員は、木で鼻をくくったように答え、「じゃあ、渋谷のどこで扱ってるんですか」と聞くと、「わからないです」としらっと答えるので、「auでiPad扱ってますよね?」と食い下がると、奥から少し年上の店員が、「LAVIの向いのショップで扱ってます」と言う。やれやれ。自転車だからいいようなものの、歩きだったら出直しだ。駅前から東急に向かう通りへ行き、2階の手続きのフロアへ。担当は岸部シローのような、表情のない男だった。ここからが、契約に至るまで、まさに1時間半以上かかるという苦行の始まりだった。とにかく説明が長い。確認事項が多い。しかも、一つ質問すると、いちいちブラウザで検索したり、電話をかけたり、途中からうんざりしてきた。やっと会社に戻ると、新しいiPadの設定を行い、今度はその隣にあったソフトバンクへ、今度は初期型の解約。お揃いの野球ウエアを着た店員は大学の文化祭よろしく、大声で客引きをしていて、さながら新興宗教のような雰囲気。担当のいいとも青年隊のような男の子が、終始明るい声で対応。こちらはすぐに手続きを終え、結局、iPadだけで午後が終わった。今度のiPadはLTEで、カメラ機能もある。おまけにsiriまで付いていた。暇な時はsiriに話しかけてみる。「明日の東京の天気は?」「アシタノトウキョウノテンキハ、ヨイヨウデスヨ」「ありがとう」「オヤクニタテテ、ウレシイデス」簡単な質問には抑揚のない声で答えるが、少し込み入った質問は、文字でweb検索せよ、と表示される。たしかに薄く、速くはなったけど、あれだけ時間がかかった割には、機能アップは大したことはなかったのだった。