もうすぐ佐渡

天気予報はまったくあてにならない。予報ではなく、現状報告。週末の天気も予報では、日曜日は晴れだった。それを信じて、土曜日は仕事をしたのに、夕方になって、日曜日は雨予報に変わった。しかも、小雨になりかかった8時半から出かけたら、25km地点の尾根幹ではかなりの降りになってきた。シューズの中は床上浸水レベル。タポタポしてる。あまりにひどいので、ここで折り返し。そのまま尾根幹を戻る。キンキンに冷凍してきたポラールボトルは、まだ一本目がだいぶ残りがある。それにしても、涼しいと、登りはこうも楽なのか。自転車の掃除が大変だなあ、と思いつつ、11時には帰宅。早速、自転車の汚れを落とし、ワックスをかける。あまりに早く帰ってきたので、昼食にも早くて、「キッズ・リターン」のDVDを見る。この映画は、17年前らしい。男の子の青春ものは、文句なくいい。大林映画しかり、北野映画しかり。少しのタイミングのズレや、ボタンの掛け違いで、手が届きかけた夢がこぼれていく。青春はだいたいが苦い思い出。DVDのあと、対タイガースのドラゴンズ戦。テレビをつけて、他の部屋に行っている間に、二連敗後の試合なのに、2回で8点献上。やれやれ。ばかばかしいので、チャンネルを変えて、伊丹十三の番組を見る。夕方、少し湿っぽくなってきたが、この日も外ランをするべく、ジムへ。ちょうど、由美さんが待ち合わせたかのように現れたので、無理やり誘って、二人で仙川へ。甲州街道の手前で折り返し、戻ると7時。帰ってから、お弁当のストックおかず2品と、ラタトゥユを作り、カッペリーニを冷製にして食べた。今週末は、佐渡である。

74km地点の白桃パフェ

暑い暑い夏も、38℃バイクを経験すると、35℃は涼しくさえ感じてしまう今週。先週と同じく、朝8時半に出発し、同じコースを行く。明らかに風が涼しく、快適。向かい風だけがしんどかったけど。ボトルごとキンキンに冷凍した水の、なんと美味しいこと。連光寺坂を上り、野猿峠を上り、まだお盆休みで車の少ない町田街道を飛ばす。38℃の時は、もうこの辺りでヘロヘロだった。いつもは、「寄るな、触るな、話しかけるな」みたいな雰囲気で走っているのに、誰かに声を掛けられたら、付いて行ってしまうくらいに弱っていた。慣れというのは恐ろしいもので、35℃のバイクはすでにデフォルトになっている。ラジオでは高校野球を聞きながら、もうぬるくなった水を飲みつつ、後半戦。74km地点にある多摩川近くのミニストップで、これも先週と同じく白桃パフェで休憩。先週は、このあたりですでに熱中症で、味もよくわからなかったが、この日はとても美味しく、堪能。80kmを4時間弱で帰宅。楽勝、と思っていたが、2時間も経つと、また頭痛。薬を飲んで、夕方30℃の中を10kmラン。ジムの仲間には、「こんなに暑いのに、走ったの?」と言われたが、風もあって、なかなか快調なランだった。

酷暑の夏

猛暑、なんてものじゃなく、酷暑。
気温が40度って、体温でも高熱なのに、空気が高熱状態って。
佐渡まで、残る3週間、1週バイク練を開けてしまうと、残り2回になってしまうので、日曜日、すでに6時でも暑いのに、ボトルごと冷凍庫でキンキンに冷やした750mlポラーボトルを2本持って、連光寺へ。8時半に出発して、10時頃まではいつもの暑さだった。これが、11時を過ぎた頃から、ぐっと暑くなってきて、保冷ボトルの水も、もはや熱湯状態。さっきまで、氷のかけらだった水を頭から掛けたら、熱い、熱い。高尾で40km、残り40km、帰れるだろうか、と不安になった。息を吸い込んでも、まるでドライヤーの熱風のようで、吸い込んでも息苦しい。少しの登りもお腹のあたりが気持ち悪く、3年前まで皆生トライアスロンの登りでやっていた、「あー、あー、あー」と声を出しながらペダルを漕ぐ。こうしていないと、お腹に力が入らない。心なしか、ロードの数も少ない。ボトルの水は、すでになくなり、残り7km地点のミニストップで、先週は食べられなかった白桃ヨーグルトパフェを食べる。カウンターで注文するが、顎から汗がボタボタと流れ、全身が汗でドロドロの中年女に、店員の男の子も引き気味。幸い、椅子席に誰もいないので、無理やり口に入れて、炭酸で流し込む。美味しいとか、冷たい、とかいう感覚がなく、喉につかえる感じ。最後の成城の登りを登って、なんとか80km終了。シャワーで水をしばらく浴びると、そのままソファに横になる。今年の夏は、ハンパネー。

シークレットレース

自転車競技のドーピング問題は、今年前人未到の七連覇を遂げたランス・アームストロングの自白によって、大きな局面を迎えた。そのアームストロングとUSポスタル時代にチームメイトとして一緒に過ごしたタイラー・ハミルトンが独白する形の小説が、シークレットレースだ。聞き手はダニエル・コイル。そこには、選手時代を通して、ドーピングと付き合った顛末が綴られている。私が初めてツール・ド・フランスを知ったのは、かれこれ27年前だと思う。ベルナール・イノーがいて、グレッグ・レモンがいて、ローラン・フィニョンもいた。この頃、動く映像を見られたのは、NHK総合でやっていた1時間の総集編だけだった。それでも、ツールの魅力は十分に伝わった。ツールを制する者は、英雄であり、自転車界のヒーローだった。アームストロングはモトローラにいた時に癌になり、復帰後七連覇を遂げている。当初から、ドーピングの噂はついて回ったが、次々とトップ選手が出場停止になるなか、ランスだけは無傷だった。それが、引退して、こんなに年数が経過してからの告発に、みんな首をかしげた。どうして、今さら、どうして、こんなに時間がかかったのか。それが、この本を読むとよくわかる。ランスは癌になった時からドーピングの噂があり、七連覇の頃は、自分は血液ドーピングの常習者であったにも関わらず、チームメイトを告発したり、国際自転車競技連盟(UCI)に密告したりを繰り返している。一番驚くのは、そのUCIも多額の寄付金で買収しており、ドーピングの検査日は彼には知らされていたということ。陽性反応が出た時も、その結果はもみ消しにされている。ランスは、自転車界のヒーローであり、一流の実業家であり、莫大な資産を生み出す商品であって、常に他を圧倒し、排除していかなければならない宿命にあったといえる。数年前にFBIが調査に動いた時も、政治的圧力で断念され、そして再び、かつてのチームメイト、フロイド・ランディスによる告発、米国アンチドーピング機構(USADA)が告訴し、すべての栄冠を剥奪した。ハミルトンの選手生命を絶ったのも、ランスによる告発であり、その弁護士費用に100万ドルをつぎ込んだ、とあった。そのハミルトンのドーピングの記録は、とても切ない。鎖骨骨折をし、歯を食いしばってラルプ・デュエズを登っていたタイラーをとてもよく覚えているが、その彼も、当時、血液ドーピングをしていたということ。そして、高速化したツールで活躍をするなら、それは必須のことだったということ。自転車に乗ることが好きだった選手が、勝つためにドーピングをし、そして破滅していく。その記録は、とてもとても悲しい。